安全な治療のためにD

ロンドン大学客員教授・松本歯科大学教授

笠原 浩

「痛くない局所麻酔」(つづき)

4.注射が終わったら
(1)針を抜いてリキャップ
 所要量(前述したように根尖相当部での注射ならばカートリッジの半分以下,口蓋粘膜ならば0.2〜0.3爪βで十分)の注射液を注出したら,針をすっと抜いて,患者さんの目に触れないようにアシスタントに手渡します.
 注射針にはただちにキャップを被せるのですが,この際に手指を刺さないように「片手リキャップ」を習慣づけてください.

(2)痛くなかったことを確認させる
 患者さんの顔の表情を観察しながら「そ−つと,ゆっくり,強圧を加えずに(GSL)」注射することが,無
痛的な麻酔のために大切だとお話しました.

 これを守って,患者さんに顔をしかめさせずに完了できれば大成功ですから,「今日の注射は痛くなかったでしょう?」と確認してもらいましょう.

 患者さんがうなづいてくだされば,先生への信頼感もぐっと増しているはずです.

(3)しびれ感の説明
 口唇などがしびれていることを,「厚ぼったくなった感じでしょう?」などと具体的に形容し30分間ほどで自然に消失していくことを説明します.

 治療終了後にも「しびれていますから,引っ掻いたり噛んだりしないように」と,もう一度注意を与えて
おいてください.

5.新しいストレート・テクニックによる下歯槽神経
ブロック
(1)下顎大臼歯には下歯槽神経ブロックを
 下顎大臼歯では頬側歯槽骨が緻密で厚いため,根尖相当部への注射だけでは十分な効果が期待できません.原則的に下歯槽神経ブロック(いわゆる下顎孔伝達麻酔)を用いるべきです.

(2)「伝麻針」は使わないほうがよい
 太くて長い伝麻針を使う「3操作法」は,痛いばかりでなく,神経損傷などの合併症も起こしやすいので
使うべきではありません.より安全で無痛的な新ストレート・テクニックをお勧めします.この方法での刺
入点となる内斜線から下顎孔までの距離は,上条によれば13.3mmが日本人成人の平均値ですから,20mmの歯科用ディスポーザブル針で十分です.浅目の利入は血管損傷が避けられる点でも有利です.

(3)新ストレート・テクニックの実際
 @安定した姿勢を確保する
 患者さんは水平に仰臥させて,右側を施術する場合には頭部を右に約35度回転させ,術者は8時30分の位置に座 ります.左側の場合には左に約こ氾度回転させ,術者は11時の位置に座って左腕で頭部を抱えこむようにします

 A下顎孔の位置を推定する
 患者さんに開口運動をさせ,施術側の関接頭を触診し,次いで下顎角(Gonion)を触診します.両者を結ぶ線を仮想して,その中央の高さに相当する下顎枝後縁に左中指頭を当てておきます(下顎枝の「高さの半分」の決定:図1A).
 次に,左拇指を患者さんの口腔内に入れ,指頭で外斜線を触診して,最も後方に陥凹した部付(coronoidnotch)を見出します.ここにおかれた拇指頭と後縁の中指頭とを結んだ線の 二等分点付近が,注射針を到達させるべき目標点となります(下顎枝の「幅の半分」の決定:図1B).

 B刺入点の決定と注射
 拇指頭を外斜線から内方に滑らせて,内斜線を見出します.この時点での拇指頭中央の約2mm先が刺入点となります.ここは口腔内で最も鈍感な粘膜ですから,痛みはほとんど感じないはずです.
 拇指と中指とで下顎枝をしっかり把持したままで(このように下顎を固定しておけば,ききわけのない小児患者などで不意に閉口や体動があってもまったく心配ありません),反対側の口角からここに刺入して,後縁におかれた中指頭に向かって針を進めます.上記の目標点 (左拇指頭と指頭とのちょうど中間:図2)に達したら,カートリッジの約3/4量をゆっくりと注出します.針を進める際も,薬液を注出する際も,ほとんど抵抗はないはずです(骨に当たるようでしたら刺入方向が間違っています).
 なお,こうした浅い刺入では吸引の必要はありません(翼突下顎隙の前半部には太い血管はないから).

 C注射の終了と下顎固定の解除
 歯髄の麻痺にはこの注射だけで十分ですが,抜歯やポケット掻爬のためには,最後臼歯の歯肉頬移行部にカートリッジの残量を汗射して,頬神経ブロックを施す必要があります.
 これらの注射が完了したら,左手による卜顎枝把持を解除します.なお,翼突下顎隙に注射された麻酔薬が下歯槽神経に浸潤していくまで,数分間は待つ必要があることをお忘れなく.
 この麻酔は最も痛くなくできる注射ですので,私たちは小児患者にも好んで使っていますが,広い範囲がしびれますので,治療終了後に咬傷予防の「しびれてますシール」を貼ることにしています.

6.安全な局所麻酔のための手技上の留意点
(1)ディスポーザブル注射針とカートリッジは一回限りで廃棄する
 患者さん一人ごとに,新しい注射針とカートリッジを使い,使用後はそのまま廃棄します.消毒したとし
ても,注射針の反復使用はお勧めできません.また,カートリッジに残った薬液は,日には見えなくても逆流による汚染の可能性がありますから,次の患者さんに使うべきではありません.

(2)注射針を曲げるのは1回かぎり
 舌側歯肉への注射では,注射針を曲げて使用すると好都合ですが,曲がったところに反対側に折り曲げる力が加わりますと破折するおそれがあります.

(3)汚染された注射針はすぐ交換
 注射針の先端が歯面やポケット内部に触れたならば,ただちに取り替えなければなりません.目には見えなくても,プラークは微生物のかたまりなのですから.手指に触れた場合にも同様です(下歯槽神経ブロックの刺入点は意外に高い位置ですので,上顎大臼歯に触れてしまうことがありますから注意してください.また,いわゆる歯根膜注射は強圧を要するために痛いばかりでなく,ポケット内の微生物を深部に押し込むおそれがありますので,避けるべきです).

7.合併症の可能性とその対策
(1)神経性ショック
 注射の直後に患者さんが顔面蒼白となり,気分不快を訴え,ひどい場合には意識喪失や全身けいれんを呈することがあります.いわゆる脳貧血様症状です.ただちに治療を中断し,体位を水平仰臥位として安静をはかってください.血圧下降が著しく,意識喪失(呼びかけに対して反応がない)している場合には,後述する心肺蘇生のABCを行います.
 これまでにお話ししてきたような「痛くない注射」を応用していれば,まず発生することはないはずです
が…

(2)薬剤アレルギーによるショック
 ー般に用いられているアミド型の局所麻酔薬(キシロカインなど)では,きわめて稀とされてはいますが,防腐剤として添加されているメチルパラベンなどが原因となることもありえます.治療前に問診で確かめておきましょう.万一アナフイラキーシでショック状態となった場合には,心肺蘇生のABCで呼吸と循環を維持しなければなりません.

(3)局所麻酔薬中毒
 非常識な大量を使用した場合には,興奮や頭痛,ときにはけいれんなどの急性中毒症状が現れることがあります.偽コリンエステラーゼ欠乏症でなければ,通常は短時間で症状は軽快するはずです.
 なお,キシロカインなどの安全域はかなり広い(不整脈の治療では静脈内注射することもある)ですから,とくに合併疾患がない成人ならばカートリッジ1〜2本はまったく心配なしに使えます.

(4)エビネフリン過敏症
 血管収縮薬として添加されているエビネフリンに過敏な患者さんでは,注射直後に動悸や頭痛を訴えることがあります.一過性の症状ですので,半座位で安静にしていればまもなく軽快しますが,血圧の異常上昇などに注意が必要です.

(5)心因性反応
 不安や恐怖感の強い患者さんでは,ヒステリーや過換気症候群などが注射というストレスで誘発されることがあります.生命に危険が及ぶものでありませんが,他の合併症との鑑別が必要です.

(6)内出血と血腫
 注射針での血管損傷があると,内出血や血腫を生じることがあります.内出血はやがて紫斑となって顔面ではかなり目立っことがありますが,いずれは消失します.

(7)口唇や舌の咬傷
 小児患者などでは,口唇や舌を思い切り噛んで,ひどい傷を作ってしまう場合もありますので,トラブルを避けるために「麻酔後の注意」を文章にして保護者に渡しておくほうがよいでしょう.

(8)その他の合併症
 神経麻酔,感染や後痺痛などは,ここで述べたような術式での局所麻酔ではまず心配ないはずです.なお,3操作法による下顎孔伝達麻酔をお勧めできないのは,骨に当たってめくれた針の先で神経を損傷するおそれがあるからです.

(この項つづく)